memory 1-5


 ミサキが目覚めた時、最初に目に入ったのは木目調の温かみのある天井だった。
 覚醒しきっていない脳みそで辺りを見回し、そうしてからようやくベッドの上で寝ていたのだと理解する。
 どうして自分はベッドで寝ているのか……記憶の糸を手繰り寄せ、ここに来る前の記憶を引っ張り出す。あの時はただただ何とかしないと、と思って、加減なんて全然わからなくて、無我夢中で祈るように力を使った。多分、使い過ぎたのだ。力を使った後の、単なる過労とは異質の身体の重さは、忘れられそうにもなかった。
 記憶が途切れる前、視界がぐにゃりと歪んで白くなっていく中で、咎めるように声が響いたのをよく覚えている。
 ――もう少し加減できぬのか
 あの声は間違いなくラスターであった。白い世界に白い天使。それは彼女の夢の入口だった。
 夢の中に入ったミサキは、白い世界の黒い扉に手をかける。すると開いた扉の中から、蠢く影の連綿が広がって、白い世界を塗り潰していく。まるでその扉は不正解だ、とでも暗にほのめかしているようでもあった。
 ――まだ何も思い出せぬのだな
 最後に、朧げだがそんなラスターの声を聞いた気がする。
 動かないと何も思い出せないような気がしてならず、ミサキはベッドから布団を剥がして起き上がる。幸いにも、その部屋には誰もいなかった。とりあえずこの部屋を出ようと思い立つ。窓の外からは橙色の陽光が差し込み、彼女の行動を暖かく見守っているようだった。
 ミサキは勢い良く扉を開ける。部屋を一歩出た所で、仏頂面のレイと対面する事になった。
「何処へ行くつもりだ」
「どこって言われても」
「答えられないのか」
 レイは悠然とした動作で剣の柄を握った。
「答えろ。さもなくば斬る」
「レイってば乱暴すぎるんじゃないの。ちょっと外に出ようとしただけじゃん」
「そのちょっと、が信用ならないと言っている」
「だって、外に出たら何か思い出せそうな気がして」
「外に出たら思い出す確証でもあるのか」
「ない」
「……もう少し何か誤魔化せないのか。怒りを通り越して呆れる」
 レイは溜息を吐くと、気だるげな動作で剣から手を離した。
「ただでさえ不審人物なんだ。疑わしい行動は慎む事だな」
「ちょっと部屋を出ようとしただけじゃん」
「それが疑わしいのだと言っている!」
 その手が自然と剣の柄に添えられたのを見て、ミサキはそれ以上の反論を諦めた。自分がいかに怪しくないかをとことん説明するつもりだった為に、ミサキは些か残念に思った。
「早く部屋へ戻れ。貴様の相手をするのはどんな仕事よりも疲れる」
 レイは顔を顰め、廊下を歩いて階段を下りて行った。ミサキはそれで、その階段を下りれば外に出られるのではないかと思った。
 レイには部屋へ戻れと言われたが、ミサキはとても部屋で大人しくしている気にはなれなかった。とにかくここを出て、何かを見れば何かを思い出すかもしれない……それが何なのか、ミサキにもわからなかったが。
 ミサキは扉をひっそりと閉めると、慎重に、慎重に廊下を歩き始めた。いかにも音が響きそうな木の廊下なのだ。一瞬たりとも気が抜けない。階段を一段降りると、小さく息を吐く。また吸って、下りての繰り返し。レイにだけは見つかりたくない。しかし、これ以外の道はない。他の部屋に入っても意味がない。とりあえず、レイに見つかる前にロウシェルトに見つけてもらえばいい。そう安易な考えでミサキは残り半分を降りる。
 ミサキが最後の一段を下りて両腕を高く上げ、達成感を全身で現した時、その左側には怒気をふんだんに纏わせたレイが待ち構えていた。
「僕の命令を無視して、よく臆面もなくやって来られたな」
「これはこれはレイさん御機嫌麗しゅう。では私はこれで」
「機嫌が麗しいわけないだろう! 逃げるな! もう許さん!」
 レイの横を通り抜けようとしたミサキは、がっちりと腕を掴まれる。
「ちょっと外に出るくらいいいじゃん! ケチ! 怒りんぼ!」
「今の言葉、後悔する事になるからな!」
 レイが王国騎士団隊長補佐になってから、誰もが直接彼に雑言を吐いた事などない。その為にレイの怒りの沸点は非常に低かった。
「二人とも。そこまでだ」
 二人はロウシェルトの手が肩に置かれた事で、ようやく彼の存在に気が付いた。それほどまでに二人は周りが見えていなかった。
 ロウシェルトは大分前から様子を遠目に見ていたのだが、迷惑を顧みずに騒ぎ始めた為に黙って見過ごす事はできなくなったのだ。
「他の宿泊者もいる。少しは静かにしたらどうだ」
 ミサキが眠っている間に、彼らは小さな宿に着いていたのだった。ミサキはロウシェルトの言葉でそれを知る。
「ロウシェルト隊長。こいつは逃亡を謀ろうとしたのです。やはり信用できません」
「だからちょっと外に出るだけって言ってるのに」
 ロウシェルトはまた騒ぎ出しそうな二人に呆れながら、なのに何処か嬉しさを感じていた。レイにとって同年代の異性と触れ合うなど、滅多にない機会。偶然にこの機会を与えられた事に感謝せずにはいられなかった。
「少しはミサキさんを信用したらどうだ。狼から救ってくれたのは彼女だろう」
「しかし」
「レイ。大人になれ」
 自尊心を傷付けるのには十分すぎる言葉を、彼は唇を噛みしめて耐える他なかった。
 レイは自分自身を大人だと思っている。自分が子供などとは露程も思っていない。だからこそ、その言葉の重みは何よりも彼に圧し掛かった。
「ミサキさん。どうして外へ出ようと思ったのか教えてくれるかな」
 ミサキが逃亡を謀る……ロウシェルトがその言葉を額面通りに受け取るはずがない。レイはミサキの行動を歪曲しすぎる。だがレイも嘘を吐いたりしないのだ。
「何か思い出せそうだったから」
 ロウシェルトは自身の心臓が一際脈打つのを感じた。その言葉は重い意味を持つ。レイは言葉の意味をわかっていない。彼女の身元が分かれば疑う必要はなくなるかもしれない。しかし、その逆にも成り得る。
「それは、すまなかった」
 自分は何故謝ってしまったのだろう、とロウシェルトは思う。だが謝らなければいけない気がしたのだ。ミサキがほんの少し、寂しそうな顔をしたから。

*    *    *    *    *

 宿で夕食の時間になった頃には、ミサキもすっかり元気を取り戻していた。
 色彩豊かなサラダと、豚ロース肉のパネソテーに、バケット。全て宿の主人の手作りだ。前の村では質素な食事だった為、ミサキはそのメニューに大袈裟と思うくらい喜んだ。実際に、心の底から喜んでいたのだが。
「すっごい美味しい! ご主人天才!」
「それは良かった。沢山食べてくれ」
 ミサキが全身で美味しいと表現しながら食べるものだから、宿の主人は上機嫌だった。レイは黙々と食べ、ロウシェルトは時折宿の主人を褒めながら食事を進める。
「お前はもう少し落ち着いて食べられないのか」
「レイはちょっとかっこつけて食べ過ぎなんじゃない?」
「こんなの当然のテーブルマナーだろう!」
「二人とも、食事中くらい喧嘩は止めたらどうだ」
 賑やかな二人を見て宿の主人は楽しそうに笑っていたが、ロウシェルトは困ったように二人を窘めていた。
 誰よりも早く食事を終えたミサキがふと、レイの皿に目をやった。サラダの盛ってあった皿に、真っ赤なプチトマトだけがぽつり、ぽつりと寂しげに残っている。
「レイはトマトが嫌いなの?」
「そんな事はない」
 それは露骨な言い訳だった。
「じゃあ早く食べなよ。トマトが待ってるよ」
 レイは無言でミサキを睨む。何故睨まれたのか理解できず、ミサキは首を傾げた。そしてレイは顔を逸らすと、ぽそぽそと喋り始める。
「トマトは僕に食べて欲しくないそうだ」
「え?」
 ミサキは本当に聞こえなかっただけだったが、レイにはそれが故意に感じてしまった。些か苛立ったような口調で繰り返す。
「トマトが僕には食べて欲しくないと言っている!」
 ロウシェルトからもミサキからも、レイが冗談を言っているようには見えなかった。
「なるほど。それでは食べる訳にいかないな」
 あくまで冷静に大人の対応をしてみせるロウシェルトに対し、ミサキは感情に愚直すぎた。
「そうだね、それじゃあ食べられないよね。やっぱりレイって面白いね!」
 ミサキはロウシェルトのように我慢するつもりはなく、ひたすら笑い続けた。レイにはミサキの笑っている理由が理解できなかった。しかし、馬鹿にされていると感じたのだろう。たちまち彼の顔は赤くなり、頭に上った血は噴火寸前だった。ロウシェルトは苦笑いをする。しかし元々発言を面白いと感じていた為、それはただの笑いとなる。
「人を笑わせられるのは才能だ。誇ればいい」
「馬鹿にされているとしか思えません!」
「人を笑わせたり、笑顔にさせるのは案外難しい。幼少期は小さな事で笑って過ごしていた毎日が、大人になるとどんどん難しくなる。だからそれは大切にして欲しい」
 一見尤もらしいロウシェルトの言葉で、レイは怒りを鎮めた。だが彼に理解はできない。あまりに難解だった。人を笑わせる、笑顔にさせる。その事に何の重要性も見出せなかったから。
 結局残されてしまった可哀想なプチトマトは、食い意地の張ったミサキにより綺麗に処理されたのだった。

*    *    *    *    *

 ――何も思い出せなかった
 ミサキは部屋のベッドで落胆する。
 彼女は一人部屋だった。その意味を彼女は知らない。ロウシェルトが少しでも彼女を信用した証拠なのだと、知る由もない。
 窓から覗く月が、やけに明るい。小さな星達が多い。暗黒の空に住む彼らの輝きは、ミサキの心に静穏を齎した。だから色々と考える事も出来る。それは、普段は沈黙を守っている陰鬱な思いさえも引き起こしてしまうけれど。
 思い出したら何か変わるのだろうか。誰も保証してくれはしない。
 ――でももしかしたら、何も知らないままが幸せなのかもしれない

 ミサキは考えるのを止め、瞼をゆっくりと閉じた。




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