memory 1-6 彼らは起きてすぐに村を発っていた。今や森は次第に少なくなっていて、海が近付いているのだとロウシェルトは言った。船に乗ってユニスティル王国へ帰る為には、シュロスカという港町へ向かわなければならなかった。 シュロスカが近付くにつれ、海特有の塩を含んだ風が吹くようになる。 そして彼らがシュロスカへ着いたのはまだ日も高い正午だった。 「今までの村とはレベルが違うね」 道は綺麗に舗装されており、人も多くて活気に溢れている。今までの村の建物が木造だった為、煉瓦が並ぶこの町は色も鮮やかに見えるのだ。 「港町は様々な大陸から人が集まるから、自然とそうなるのだろう」 「……ロウシェルトさん! レイ君!」 ロウシェルトとレイは背後から声を掛けられ、振り向く。ミサキも自然と振り向いた。 そこに立っていたのはレイより年上の青年。萌葱色の癖っぽい髪をしている。滅紫の瞳は少し釣り目がちで、猫を連想させる顔立ちだった。 「ゼノアじゃないか! 元気そうで何よりだ」 「偶然お会いできるとは何たる僥倖。オレは感激しています!」 彼は満面の笑顔を浮かべる。口から覗く八重歯は猫っぽさを強調していた。 「お久しぶりです」 「レイ君も元気そうだね!」 レイは無愛想に挨拶をしたが、そんなのを気にも留めずに彼はレイに抱き付いた。細身のレイは、人並に鍛えている彼の腕の中にすっぽりと入った。 「うーん……更に痩せた? お兄ちゃんは心配だよ」 レイは一瞬だけ苦々しい表情を作ったが、彼が離れたと同時に表情を戻した。彼のハグは挨拶や親愛の表現で多々使われるが、一応相手を弁えていた。自分より年上の相手や、目上の人には軽々しく抱き付いたりはしない。 「所でこちらの可愛い女の子を早くオレに紹介して下さい!」 「君は相変わらずだな。彼女はミサキさんだ。ちょっとした任務があって、その間同行してもらっている」 「はじめまして」 ミサキは軽く会釈をすると、彼は唐突に彼女に抱き付いた。軽くなどではなく、それはもう、思いっ切り。 「めっちゃ可愛いー! この大人と子供の境界線の可愛さ! オレはゼノアイナ・ヴェート。ゼノアって呼んでね、ミサキちゃん!」 「く、苦しい」 ロウシェルトはその腕力で、ゼノアイナを強引に引き剥がした。そうでもしないと、彼はミサキからなかなか離れなかっただろう。 「ロウシェルトさん、もう少しくらい良いじゃないですか」 「ミサキさんが潰れてしまうだろう」 「酸欠になるかと思った」 ミサキは一歩だけ後退してゼノアイナとの距離を取った。初対面で抱き付かれるなど想像もしていなかったのだ。 ゼノアイナと彼らの初対面はそんなに過去の事でもなかった。ゼノアイナはこの港町を拠点に自由業をしている。所謂何でも屋というやつで、請け負った仕事の関係でユニスティル王国を訪れていた時に怪我を負ってしまい、それをロウシェルトとレイに助けられたのが切っ掛けだ。 「今もこうやって仕事を続けていられるのもお二人のおかげです」 「そんな大袈裟な。礼には及ばないさ。当然の事をしたまでだ」 「ロウシェルトさんのそういう所、憧れます」 レイとゼノアイナはまるで正反対だった。ゼノアイナは感情を素直に表すし、明朗快活だ。社交性もある。レイには自分と真逆の存在を理解するのは難しいだろう。 「そういえば、皆さんに紹介したい奴がいます」 三人は全く気付かなかったが、いつの間にかゼノアイナの背中に貼り付くようにして隠れる少女がいた。ゼノアイナはそれを引き剥がそうとしたが、少女は彼の服を掴んで離れようとしない。少女はその背中から顔だけを覗かせている。ゼノアイナと同じ髪色に瞳。髪を二つに分けて高い位置で括っている。顔立ちはゼノアイナによく似ていた。 「ちょっと人見知りで、すみません。妹のヴィリアンって言います。つい最近一緒に仕事をするようになりました」 兄が何を喋ろうとヴィリアンは全く口を開こうとしない。代わりにじとっとした瞳は真っ直ぐにミサキを睨んでいた。漏れ出す憎悪の念を隠そうともせずに。初対面でどうしてそこまで嫌悪されてしまったのかわからず、ミサキはぎこちなく笑う事しかできなかった。 「へぇ。ミサキさんより年下じゃないのか? お兄さんの仕事を手伝っているなんて偉いな」 ヴィリアンはロウシェルトに目を向ける。暫く睨んだ後に、彼女はぽつりと言葉をこぼす。 「お兄ちゃんの側にいられるのなら、何でもやります」 ヴィリアンのその言葉は全てを集約していた。ヴィリアンが兄に対して抱く感情は愛よりも深く、暗い。兄の為ならば自分を犠牲にする事も厭わない。ミサキに向けるそれは憎悪の闇に塗り潰された嫉妬心だった。深淵に沈んだ愛は何よりも不安定である事を、今は誰も知らない。 ヴェート兄弟は彼らと同じ、ユニスティル行きの定期船を待っていた。成り行きで一同は行動を共にする事となった。 定期船が間もなく来るという頃、彼らは船着場で時間を持て余していた。定期船が必ずしも時間通りに来るという保証はない。特に今日は、海の向こう側の天候が優れない。 ロウシェルトとレイは二人で話し込んでいる。ミサキは一人、離れた所で海を覗き込んでいた。一歩間違えれば海に簡単に落ちてしまいそうな体勢である。 海は透き通っていた。下まで透けて見えるのは、何よりも海が綺麗である証拠。彼女は感動していた――しかし背中をどん、と強く押された気がして、ミサキは体勢を崩した。 「うわ」 咄嗟に身体を支える事ができず、ミサキは海の方へと傾いてしまった。 「おっと」 落ちようとするミサキの身体に、ゼノアイナの腕が回る。同時に彼も体勢を崩してしまい、彼女を抱き抱えたまま尻もちをついた。 「危ないなー気を付けないと。ミサキちゃん」 安堵の溜息を吐いたゼノアイナは、それからミサキの耳元に口を寄せてそっと囁いた。 「また抱き止めて欲しいなら、別だけど」 ミサキが抱いた印象と百八十度違う、妖艶な声音だった。別人のような気がしてしまい、ミサキは後ろを振り向いた。彼女のすぐ近くに、彼の顔はあった。ゼノアイナは気にも止めず、少しだけ顔を引くとにっこりと八重歯を覗かせて笑った。 「あはは、なーんてね。冗談だよ。この為にある程度鍛えてるんだから、遠慮なくいつでも落ちてね」 「……びっくりした。ゼノア、ありがとう。それと、いつも落ちてられないよ」 ミサキはゼノアイナから離れて立ち上がると、彼もゆっくりと立ち上がった。ロウシェルト程高くはないが、ミサキが見上げる位置に彼の顔はあった。 「どういたしまして。ミサキちゃんはオレが見てないと駄目だね」 口説き文句の類を、彼は簡単に口にする。だが本音がそこには殆ど包まれていない。だからこそ、軽い。相手が軽く受け流せる程度の事しか彼は言わなかった。 ――少し離れた所で、ヴィリアンがその二人のやりとりをじっと見ている。彼女の纏うオーラがどす黒く淀んでいる。華奢なその手は、震えていた。 「三人とも、早く来なさい。船はもう着いているぞ」 ロウシェルトが声を掛ける。ミサキは元気良く返事をすると、船に乗り込んだ。ゼノアイナも後に続き、ヴィリアンを手招きをする。彼女は嬉しそうに寄って行く。醜いものなど何も知らないとでも言うような笑顔だった。 「船旅楽しみだね!」 「僕に同意を求めるな」 レイはもう何度も船に乗っている。今更楽しみも何もないだろう。ミサキはそんなものお構いなしに楽しそうにしている。彼女が早速船首へ向かおうとすると、船員が彼女を止めた。 「お待ち下さい。ロウシェルト総隊長のお連れ様ですね。部屋をご用意致します。少し向こうの天気が悪いですが、船旅には影響ありませんのでごゆっくりお寛ぎ下さい」 ロウシェルトは遠慮しようとしたが、船長もやってきては断るのも申し訳ない。ちょうど乗客も少なかったらしく、特別にそれぞれ個室が用意されたが、ヴェート兄妹は同室にしてもらっていた。 ロウシェルトもレイも、個室で一人の時間を満喫していた。ヴェート兄妹も、個室から仲良く海を眺めていた。 その中でミサキだけが個室を抜け出し、船首で海の風を受けていた。他には誰もいない。海猫達がみゃあ、みゃあと鳴いては船の周りを飛んでいる。餌の催促をしているのだろう。ミサキはふと思い付く。腕輪の力で餌を与えてみよう、と。まずは意識を集中させる。そして想像する。小さな魚を沢山想像する。そして創造する。 光が飛び交って魚を形作ると、それらは本物になって宙を舞った。海猫達が一斉に追いかける。 「大成功だ」 ミサキが一人微笑むと、その背後で拍手が響いた。 「ミサキちゃんは魔法が使えるんだね」 「あっゼノア。これはね、この腕輪のおかげなんだ」 ミサキは自身の腕輪をゼノアイナに見せる。僅かばかり減った光の粒がふよふよと腕輪の中を漂っている。 「へぇ……」 ゼノアイナは魅入られたように腕輪を触る。多くの者は同じような反応をするのだ。 「そうだ、ヴィリアンにも見せようかな。あいつもああ見えて魔法が使えるんだ。ミサキちゃん程軽々とはできないけどね」 ミサキはヴィリアンの名前を聞いて軽く身構える。歳は近いのに嫌われている事を、ミサキ自身がよくわかっていたからだ。しかしそんな彼女もお構いなしに、ゼノアイナは甲板から姿を消していた。 いつの間にか海猫が姿を消している。餌を貰って満足したのかもしれない。船はいつの間にか灰色の空の下へと突入していた。ミサキは空を仰ぎ見る。天候を変えたかったが、それには力を使っていけない気がした。 突然、船が大きく揺れた。 体勢を崩したミサキは尻もちを着く。あまりに痛い。なんて乱暴な運転だ。ミサキは文句を言いたくなる。しかも一回どころかもう一回、更にもう一回、そして一際大きく揺れた。 異常だ。ミサキはそう思ったが、あまりに揺れるので上手く立ち上がれない。 「ミサキちゃん!」 ゼノアイナが船首に出てくる。その後ろにはヴィリアンがくっついていた。 「どうやら何かにぶつかったらしい。ミサキちゃんが心配で来ちゃったよ」 「ありがとう」 ゼノアイナの差し出した手を握り、ミサキは立ち上がる。船は進んでいない。波に乗って揺れているだけである。 「全く、船長は何をやっているんだろう」 ヴィリアンはゼノアイナにがっちりと掴まりつつも、全く表情を崩さずにいた。ミサキは驚いた。こんなに怖い状況でよく冷静でいられるな、と。しかしヴィリアンにしてみれば状況など何の意味もない。ただ側に兄がいる事。それだけで何も怖くないのだから。 雨が降り始めていた。 レイもロウシェルトも個室を出て、ミサキの部屋とヴェート兄妹の部屋へ向かった。しかし誰の姿もない。 「そういえば先程ゼノアが、ミサキさんが魔法を使えてどうの、と騒ぎながら妹と出て行ったな」 「おそらく船首でしょう」 「ゼノアがいるなら問題ないか。私達は先に船内を見てまわろう」 二人は船員や船長の姿を捜したが一向に見当たらない。船室ではざわざわとどよめく乗客がいるばかりだ。二人は操縦室へ向かう。――そこは無人だった。 「何故誰もいないのでしょうか」 「わからないが……どうやらこの船にいては危険のようだな」 「……ロウシェルト隊長、指示を」 「ああ。まずは乗客を避難させよう。人民を守る事も我等の仕事だ」 彼らは取り乱さない。それはいくつもの窮地を乗り越えてきたからこそであった。 いよいよ悲鳴が飛び交い始めた。ロウシェルトは行方不明の船長の代わりに避難の指示を放送で流す。乗客の悲鳴や泣き声はしかし、止まない。ロウシェルトは取り乱している者の所に行っては、何とか救命胴着を着せた。非常口を探し、救命ボードも探した。そのせいで彼らの予想以上に時間が掛かっていた。 「レイ、残っている人がいないか捜すんだ! それから私達も脱出する!」 「はい!」 二人は手分けして船内を駆け巡る。声を張り上げながらひとつひとつの部屋を確認する。しかし、そんな彼らを追い詰めるように、船内に焦げくさい匂いが漂い始めた。原因や場所はわからなくても、何処かが火事になっているのは誰にでもわかっただろう。 「くそっ何でこんな時に」 悪態を吐いても、火事は待ってくれない。次第に通路にも煙が蔓延し始め、その煙がレイの視界に入った途端、爆発音が響いた。船が大きく揺れる。 「レイ! もう限界だ! 脱出するぞ!」 ロウシェルトの大声が船内に響き渡る。しかし、レイは気掛かりだった。ミサキに対して僅かな疑いを抱いている故の、心配だった。 ――もしかしたらこれに乗じて逃亡を謀るかもしれない レイは船首を目指す為に甲板へと出た。強くなり始めた雨とロウシェルトが、彼を迎える。 「私が先に飛び込む。後に続け」 しかしレイは返事をしなかった。ロウシェルトはミサキ達が脱出したと信じて疑っていない。そんな彼に疑心を伝えては、咎められるだけだろう。だからロウシェルトが海に飛び込むのを見届けた後、レイは一人、船首を目指した。彼が命令に背くのはこれが初めてだったのかもしれない。 船はもう大きく傾いていた。雨がレイを攻撃するかのように降り注いでいる。船内は火の海になっていて、船上にい続けるのはあまりに危険だった。 揺れる視界でレイが見た物は、船首の先で手すりに掴まっているヴェート兄妹とミサキだった。 「何をやっている! 早く海に飛び込め! すぐ下に救命ボードがある!」 しかし雨の為かレイの声は聞こえていないのだろう、彼らは動かない。だがミサキだけが気付いた。視線がずっとレイを捕らえている。ふと、大きく船体が傾いた。レイはバランスを崩し、大きく飛ばされる。手すりが、彼の後頭部を強かに受け止めた。レイの視界はぐにゃりと歪む。 「レイ!」 降りしきる雨の中でも、ミサキの声は響いた。それはレイの耳にも届く。だが返事はできない。レイはあまりの痛みに意識が朦朧としていた――だがしかし、逃げなければ。 崩れゆく意識の中、レイは視界の端で黄金色の輝きを見た。もうそれ以上、意識を繋ぎ止めて置く事は出来なかった。 120619 |