memory 1-4


 三人はいつまでも厚意に甘え、村に滞在している訳にはいかなかった。村人達が起床するのを待ち、彼らは村人全員に謝意を伝えてまわった。ロウシェルトとミサキは心から謝辞を述べるのに対し、レイは相変わらずの無表情で彼らに追随するだけだった。ロウシェルトはそれを咎めたりしない。面責した所でレイに理解はできないのだ。だって、彼は村人達に対して何の感情も抱いていないのだから。

 村人達に別れを告げ、彼らが森に入ってすぐにロウシェルトとレイは足を止めた。
「どうしたの?」
「昨日の狼が村を見つけてしまったらしい。包囲されているようだ」
 ロウシェルトは苦々しく呟くと、鞘から剣を引き抜く。レイは疾うに剣を引き抜いていた。
「レイ。一匹残らず殲滅だ。また仲間を呼ばれたら困る」
 自分達の方が精強であるとは言え、狼達が昨日より多くの仲間を連れてやって来ているのは二人にもわかっていた。集団で圧倒されてしまえば自ずと劣勢に立たされてしまう。ロウシェルトの掌は冷汗でじっとりと濡れていた。
 ――獰猛な狼に情けなどかけるべきではなかったか……!
 ロウシェルトの中で後悔が押し寄せ、責務の重圧が両肩に圧し掛かる。元より強い責任感は、その責務にぶら下がって彼の身体を重くした。自分のせいだ、と口に出せばロウシェルトの肩は少しでも軽くなったのかもしれない。しかしそんな言葉は誰も望んでいない。事が起こってから「自分のせいでしたごめんなさい」など、ロウシェルト自身が許すはずなかった。だから彼は守らねばならなかった。レイもミサキも村人達も、全員を傷付けてはならない。
 しかしそれは神頼みの奇跡に近かった。ロウシェルトはわかっていたのだ。このままでは必ず誰かは傷付いてしまうのだと……それも、自分のせいで。
「頼むぞ、レイ」
「はい」
 ロウシェルトの心憂いなどレイにはわからない。だがレイの返事は、今のロウシェルトにとっては何よりも心強かった。
 二人は神経を研ぎ澄ます。狼の動きに全神経を傾けて、備えた。狼の影が緑の境で揺らめいている。村を囲うように何匹も、何十匹も。
「何だ!?」
 緊迫した空気の中、レイの声が響く。それは驚愕の色に染まり切っていた。彼の足は自然と一歩下がる。その爪先のすぐ前から、薄い光の壁が天に向かって伸びていた。ロウシェルトは空を仰ぎ、平静を装いながら周囲を確認する。
「この光、村を囲んでいるようです」
「……ああ。ひとまず下がるぞ」
 ロウシェルトは生唾を呑み込んだ。

 ――自分を信じるのだ、ミサキ
 その時、彼らはラスターの声を聞いた。

 光の壁は誰もが瞬きする暇もなく、一瞬で森の外へ広がり……消えた。蠢いていたいくつもの影はもうひとつもなかった。元の静けさが森へと帰ってくる。
 ロウシェルトとレイは唖然として光の消えた辺りを眺め、しかしすぐにミサキを振り向く。視線を腕輪へと落とす。あるはずの光は殆どなくなっており、寂しい腕輪がそこにはあった。
 ロウシェルトは身震いさえした。あれだけの力を使いながら平然としているミサキが、怖くなったのだ。腕輪に秘められた恐ろしい力を畏怖せずにはいられない。しかし同時に、感動さえしていた。最早それは畏敬の念。
「貴様か」
 だからロウシェルトは、レイが思いの外冷静だった事を驚かずにはいられなかった。自分と同じように、もしくはそれ以上に恐れていると思っていたから。
「……驚いたな。こんな事もできるのか」
 ロウシェルトの素直な賞賛の言葉はしかし、ミサキには届かなかった。彼女は糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちたのだ。
「どうした!」
 ロウシェルトは駆け寄り、ミサキを抱き上げる。しかし彼女の瞼は開かない。どんなに揺すっても、彼女は何の反応も示さなかった。彼は脈を測ると、安堵の溜息を吐いた。
「異常はないようだ」
「ふん。お騒がせな奴だ」
「私が背負って歩こう。長居している時間はない」
 ロウシェルトは軽々とミサキを背負う。彼の逞しい胸板に、ミサキの腕が力無く垂れる。その腕輪の光の粒が、既に増え始めていた。回復の速度は目に見えて早まっていた。
 二人の心境を察してか、ただ単に気紛れなのか、腕輪の天使……ラスターは現れた。二人の胸中はどうであろうと、表面上は淡泊な反応でもって迎えた。
「どうだ諸君。これぞ天使の力」
「ああ。恐れ入ったよ」
「そうだろう、そうだろう」
 ラスターは満足気に笑う。眠り続けるミサキをちらりと見た後、レイに視線を移した。
「例えおぬしがこの腕輪に適応できたとしても、ミサキ程の力を操る事などできぬだろうな」
「何故断言できる」
 自身を貶める発言を、矜持の高いレイが軽く受け流せるはずなどない。
「残念な程に想像力が欠落しておる。おぬし、他人の気持ちを考えられないだろう。そんな事では強くなれぬぞ」
 その通りだった。ロウシェルトは心の中で同意する。しかし、口に出したりはしない。彼もそんな事を言われるような年齢でもないだろう……いつか気付いてくれる事を願っていた。しかし、気付く前にラスターは言ってしまった。だから同時に、苦笑してしまう。
「強さとは何も関係ないだろう!」
 レイは無意識に声を荒げていた。本人がどんなに否定しようと、それは今の彼に欠如している部分に違いないのだ。
 剣の扱いだけを限定して言えば、レイの言う事は強ち間違っていないのかもしれない。剣を上手く使いこなすだけならば、他人の気持ちを知る必要などないだろう。だがラスターは知っている。どんな魔法よりも恐ろしいのは、人の持つ心が喚起する力。計り知れない魔法を秘めたその力。
「腕輪は恐ろしいだろう。だが行使できるのは優しい心を持った人間なのだ。それを忘れるな、少年」
「黙って聞いていれば、何を偉そうに!」
 レイは剣の柄に手を掛ける。ロウシェルトは、自分の部下が感情を露にしているのを見て胸を撫で下ろしていた――それは変な話に聞こえるだろう。血の気の多さに安心感を覚えるなど、と。だがレイに限っては例外になるのだ。本当に血が流れているのかと疑問に思う程に冷淡な騎士団としての彼。しかし今は歳相応の、若しくはそれより幼いであろう彼。やはり環境が悪かったのだと思わざるを得ない。ロウシェルトは自身の力不足も認めるしかなかった。
 ラスターはレイに構う事なく、空気に溶けて消えていった。怒りの矛先を失った彼は顔を顰めると、小さく溜息を吐いた。
 ロウシェルトは空気を変えようとして、さり気無い話題を提供する。
「しかしミサキさんはよく起きないな。余程疲れているのだろう」
「そいつが軟弱すぎるのです。鍛え方が足りないだけだ」
 普通の少女に鍛え方も何もないだろう、とロウシェルトは思うが、ご機嫌斜めのレイにはそんな発言さえも刺激と成り得るだろう。
 レイは表情さえ冷静なそれに戻っていたが、心の中では複雑な葛藤を続けていた。ミサキの存在。腕輪の存在。ミサキの言葉。天使の言葉。ミサキの力。そして、自分自身の力。
 持つ力を比べようと天秤を用意しても、レイはその皿にさえ乗る事ができない。ミサキの力が強大すぎて皿に乗る事さえ恐れてしまう。そうやって天秤の前で蹲った自分を、ミサキが皿の上から嘲笑を落としている気がしてならなかった。それは、彼に酷い屈辱感を与えた。
 だからこそレイは抗う。自分よりミサキの有してる力の方が勝っているなど、認めるわけにいかない。それはレイがレイである為の矜持。捨てる訳にはいかない。つまりそれはミサキを認め、自身を自ら貶める事となんら変わりないのだから――そんなものは、レイの偏執的な妄想に過ぎないのに。彼が彼のままである以上、その錯誤に気付く事さえできないだろう。
「大体、こいつは無防備すぎます。僕達が敵だったらとか考えないのか」
「レイはミサキさんを心配しているのか」
「心配などしていません! そんなものは時間の無駄です!」
「ははっ。いつになく饒舌だな。私は楽しい限りだよ」
 レイは反論するのを諦める。何を言ってもロウシェルトには勝てない事など、知っていたから。
「……レイ。私はミサキさんが怖い」
 レイはロウシェルトの顔に冗談が含まれていないのを確認すると、僅かに眉根を顰めた。
「突然現れた事も気に掛かる。しかしそれ以上に、何故彼女が適応者と成り得たのか……それが分かれば自ずと、唐突にあの場所に現れた説明が付くのではないかと思っている」
「ロウシェルト隊長は、こいつがただの子供ではないと言いたいのですか」
 ロウシェルトは返事をしない。しかしその口元に湛えた笑みは、確かにレイの言葉を肯定していた。
「本当に記憶を失っているだけなのか、或いは……。何にせよ、今は何を考えても無駄だという事だ」
「はい」
 返事をしただけなのに、そこにはレイの想いが包括されているようだった。
 ロウシェルトの背に身体を預けているミサキは知らない。彼らの様々な思いなど。何も知らないミサキがもし裏切りに合おうものなら……彼女自身ですらとても想像が及ばない。否、彼女が想像する事はないだろう。ミサキは誰も疑ったりしないのだから。




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120612