memory 1-3 地面に寝転がって夜を明かしたなど思えない程、ミサキは元気だった。相反してレイの顔色から元気と表現するには難しく、ロウシェルトも顔色に若干の疲労を残している。 手持ちの食糧は必要最低限だ。本来二人分だけの物を三人で分けている。体力は回復せず、疲労が蓄積していくのは当然だった。 「小さな村があるから、そこを目標とする。日が沈む前には着くだろう」 ロウシェルトは地図と羅針盤と太陽を見比べ、大体の位置を把握する。彼は勘では行動せず、必ず安全を優先した。 「目標があればやる気が出るね」 「僕に同意を求めるな」 レイはミサキを冷たくあしらう。声は相変わらず温度を持っていないが、それでも嫌な表情を見せないのだから彼の中で一応の決着は着いていたのだろう。彼の胸中は未だ複雑で、本人にさえ計り知れない。 「ただ注意を怠るな。この辺りは獰猛な狼が生息する。レイ、ミサキさんはしっかり守るように」 「……ロウシェルト隊長」 言葉で表現こそしていないが、レイは不満を露にする。 「命令だ。異存はないな」 命令と言われてしまってはレイも逆らえない。ミサキを一睨みすると、レイは小さく返事をした。 「僕に迷惑をかけるなよ。狼が来たら隠れろ。すぐにだ。でなければお前を斬る」 「うん。ありがとう、レイ」 ミサキが微笑むと、レイはツンとして顔を背ける。そしてそのままさっさと先を行ってしまうのだった。 「レイ、あまり急くな。体力を消耗する」 軽く咎められた事が彼の矜持を刺激したが、彼は無言で追従するだけだった。 ロウシェルトもレイも職業柄だろう、嫌な気配を感じ取っていた。危害を加えんとする者の存在に対しての過敏なまでの反応の速さ。それが生死を分かつ事も多々ある。ミサキは警戒心を全く持っていない。その分、二人は警戒しなければならなかった。 「おい、後ろに隠れてろ」 複数の物音が、三人に向かって足早に近付いてくる。 ミサキは黙ってレイの背に隠れた。彼のマントが彼女の手にふいに触れ、ミサキは自然とそれを撫でていた。 「そんな事をしているとまずは貴様を斬る」 ミサキは渋々その手を離した。ロウシェルトはこんな事態が起きても動揺すらしていないミサキに、寧ろ尊敬の念さえ抱いていた。 まずは木の裏から一匹が飛び掛かってくる。久しぶりの獲物なのだろう、その眼光は獰猛にぎらついていた。それをロウシェルトは足で軽々と一蹴する。きゃうん、と情けない声を上げた狼は逃げて行った。 「くっ逃げたか……まだ来るぞ」 ロウシェルトは鞘をつけたままで剣を構えた。レイもそれに倣う。 「すぐ後ろに立たれたんじゃ動けない。少し離れてろ」 ミサキは三歩数えて後ろに下がる。そうして剣を構える男達を見守った。 何か合図があったかのように、狼は一斉に飛び掛かってくる。右から、左から、正面から。まずは左右それぞれの狼を剣で殴り捨てるようにし、正面から来る狼を二人で殴り付けた。その完璧なまでの身のこなしと呼吸。ミサキは感嘆の溜息を漏らしていた。 「隊長、残数は」 「あと数匹って所か。奴らは多く群れないからな。来るぞ」 狼達は彼らに一斉に飛び掛かる。それを容赦なく殴り付け、レイは後方にも注意を向ける。ミサキの後ろに狼が一匹、回り込んでいた。 舌打ちをすると、レイは地面を勢いよく蹴る。狼がミサキに飛び掛かるのと、レイがミサキを抱き締めるようにしてその剣を突き出したのはほんの一瞬の出来事だった。 レイがミサキから離れると、容赦のない突きをくらった狼はふらふらとした足取りで森の奥へと帰って行った。 「ありがと……」 さすがのミサキでも驚いていた。一瞬の出来事すぎて思考が追い付いていなかったのだ。 「任務を遂行しただけだ。礼を言われる覚えはない」 目を合わせようとするミサキに対して、レイは一切応えようとしなかった。 「ミサキさん、怪我はないか」 狼達を追い払ったロウシェルトが、何処か呆然してるミサキに掛け寄った。 「レイが助けてくれたから、大丈夫」 だがそう言うミサキに先程までの元気はなかった。 ロウシェルトにはその感情の動きが理解できなかった。ならば触れないでおくのが最良、と考えた。彼はそれ以上余計に声を掛けたりしなかった。 ミサキが元気を失くしてしまった為、三人の持つ空気はどんよりと曇ってしまった。ロウシェルトとレイが二人だけの時はここまで暗くならなかった。そもそも二人きりの時に雑談は殆どしない。 ミサキの事もだが、各々に感情の変化があったからだろう。ロウシェルトもレイも、その事に関しては否めない。 だがその沈黙は突如として破かれた。 「あまり離れて歩くな。守れるものも守れなくなる」 それは誰もが予想していない人物の声だった。もしかしたら本人である、レイでさえも。 「僕がお前を守るのは当然であり義務だ。だがちんたら歩いてるようなら置いて行く。わかったか」 その言葉でロウシェルトはようやく知る。ミサキが元気をなくした理由を。 ミサキは気にしていたのだ。レイに助けてもらった事。自分の危機にさえ気付けなかった力不足。力を持っているのにそれはただの宝の持ち腐れである事。この力が何故、自分に備わってしまったかという事。ミサキは自責の念を抱き始めていた。 レイがその事に気付いていたのかは、本人さえもわからない。ただ、その言葉でミサキは救われた。まるで言外に、気にするなと言われているような気がしたのだ。 「うん。ありがとう」 レイはミサキが笑う理由がわからない。ちらりと一瞥しただけで、レイは顔を背けた。 冷たい言葉の裏に隠されたレイなりの優しさを垣間見たような気がして、ロウシェルトは小さく微笑むのだった。 一同が到着したのは洞窟に向かう前には寄らなかった小さな村だった。森を抜ける時、この小さな村を経由するとなると少しばかり寄り道になってしまう。だがしかし、少し遠回りをしてでも休みたいぐらいにロウシェルトにも余裕がなかった。 彼らは村人に歓迎された。質素ながらも食事を彼らに振る舞い、寝床も用意してくれた。ユニスティル王国の総隊長ともなれば、他国であるここ、ラウニカ大陸にも顔が知れ渡っていても不思議ではない。ロウシェルトはその肩書きに恥じない数々の功績を挙げている。 村人も気を遣ったのだろう、二部屋用意しようとしていた。しかしロウシェルトは断った。建前は宿賃を支払っていないのだから、と。しかし本音はミサキを一人にする事はできないからだった。やはりまだ、ミサキを全面的に信用するには至っていない。 ミサキは異性と同じ部屋で寝る事に対し、何の疑問も抱いていなかった。何も知らないと言うのはここまで及ぶのか、とロウシェルトは思う。彼女が普通の少女であったなら、ロウシェルトはどう詫びるべきか考え始めていた。彼は全てを信用しないにしても、ミサキに対しての印象は前向きにあるからだ。 ロウシェルトの杞憂を余所に、ミサキは真っ先に寝た。しかしロウシェルトもレイも溜まった疲労には逆らえなかった。二人とも時間を置かずに眠りの淵に堕ちていった。 ミサキはしかし、すぐに目を覚ました。誰かが自分を呼んでいる気がしたのだ――実際、呼ばれていた。 「ようやく起きたか。何もわからぬのに私を呼ばぬとは何事か」 開いたカーテンに寄り掛かるようにして、天使はミサキを見下ろしていた。窓から入る月光が、天使の輪郭の分だけ遮られている。 「忘れてた」 「私の存在を忘れようなど、ミサキはなかなか面白いな」 天使は気を悪くした風もなく、寧ろ楽しそうに笑う。月夜にひっそりと存在する天使に、ミサキは違和感を拭えないでいた。暗闇に真っ白というのは、どうしても浮いてしまう。 「私は強くなれるかな」 「ミサキは疾うに力を手にしているではないか。それを駆使すればいいだけの事」 天使はふわりとミサキの側まで移動し、その腕輪に手を添えた。光は物静かに腕輪の中を泳いでいる。 「過信するなとは言ったが、ミサキは些か不信の傾向にあるようだ。もう少し私と自分を信じてみて良いと思うぞ」 「簡単には信じられないよ。だって、私は何も知らないから」 腕輪の光は、やはり大人しく彷徨っている。彼女が力を使う時以外は、基本的に光り輝いたりはしない。 「ミサキはそこの二人の名を知っている。そうだろう。何も知らぬと嘘を吐くものではないぞ」 「じゃあ教えて。天使さんの名前」 天使は「……名か」とぽつりと呟いて黙考を始めた。難題をふっかけたつもりのないミサキは少しだけ困ったような顔付きをした。 「名はない。いや、あったのかもしれないが思い出せぬ」 「……ラスター。多分、そんな感じじゃないかな」 突拍子もないミサキの発言に、天使は目を見開いた。 「ふむ。悪くない。では今から私はラスターと名乗る事にしよう。……そろそろ消えようぞ。会話を盗み聞きされるのは好きではないのでな」 風が吹いてカーテンが揺れると、もうラスターは消えていた。ラスターがいた名残など何も残っていない。 ロウシェルトもレイも動かないので、ミサキには誰が会話を盗み聞きしていたかの判断はできない。でも、何もやましい事など話していないのだ。ミサキは気にせず、瞼を閉じる。夜風が頬を撫ぜた。彼女はすぐに眠りについた。 レイは寝返りを打つと、窓辺に視線を向ける。開いたままのカーテンが夜風に翻っている。窓辺のすぐ近く、ミサキの腕輪に視線をずらし、魅入られたかのように暫くそれを見つめていた。 彼は未だ実感できないでいる。天使の存在を。確かに目の前で現実として映っているのに、どうしても素直に受け入れられなかった。彼の世界には有り得ない事だったから。それはどれだけ彼が騎士団という小さな世界の中で、平凡な日々を送っていたかを知らしめるものだった。 レイは悔しかった。腕輪の持つ力を立証するミサキが妬ましかった。自分にできなかった事をさらっと現れてやってのけた普通の少女。それが或いはロウシェルトであったなら、彼はここまで思い悩んだりはしない。自分より確実に非力であろう少女が、自分より勝る力を手に入れた事実。それを受容するのはよっぽど難題だった。 腹の底で燻る想いが、じりじりと彼を苛める。誤魔化すように何度も寝返りを打っては、レイはようやく瞼を閉じた。 そんなレイの様子を、ロウシェルトは瞼越しに気に掛けていた。 120612 |