memory 1-2


 落ち着きを取り戻したレイはしかし、機嫌までは元通りにならなかった。全身に怒気を孕ませながらも口を出さないのは、ロウシェルトがいるからだろう。
 レイの子供のような短所が明らかになった。なのにロウシェルトは安心していた。仕事は完璧でも、どんな冷静なふりをしていても、まだ子供なのだと実感できるからだ。
 彼が同年代、ましてや異性と接するのは随分久しい。剣や勉強ばかりしてきたレイにはいい刺激になるかもしれないと、場違いな事を思いながらロウシェルトはミサキを見る。
 ――何も知らないとしか言わないミサキを放置して行くのは、ロウシェルトに出来るはずもなかった。それに加え、腕輪を身に付けても無事でいる。あろうことかその力まで使って見せたならば、無視などできるはずもない。ユニスティル王国に連れ帰るのが最善だと考えた。
 しかし、普段命令には従順なレイが第一声で異を唱えた。既にミサキを嫌厭してしまっていた。
 行きと同じように、帰りも長旅になる。何も知らない少女の身体には堪えるだろう。レイもロウシェルトも、口にこそ出さないが疲労は溜まっている。そんな状態で喧嘩などをして無駄な体力を消耗するのがいかに愚かな事か。ロウシェルトは、レイはわかっているだろうと信じつつも、心の中に不安を抱えていた。信用と不安とが半々だったという方が正しいのかもしれない。
「ロウシェルトさん。何も知らないのって変なのかな」
「それは難しい質問だな」
 変だと容易に言えるほど、ロウシェルトは無神経ではない。故に返答に困っていた。何と言われようがミサキ本人が傷付いたりしない自信があるから質問した事を、ロウシェルトが知らないのも原因だが。
「変に決まっている」
 ずっと黙って後ろを歩いていたレイが、ぽそりと呟く。
「やっぱり変なんだ」
 あっけらかんとしたミサキの様子に拍子抜けしたのか、レイはまた黙り込む。ミサキは彼の予想の斜め上を行く。だからこそ上手く対応できずにいた。
「気を悪くしないで欲しい。レイは少し人見知りでな」
 ミサキは元より何も気にしてなどいない。ロウシェルトが心配症なぐらいだ。それは年長者であるという強い意識から来る一種の病気なのかもしれない。
 レイは二人の後ろから、ずっと腕輪だけを見つめていた。浮遊している幾つもの光の粒。それと、剣であったはずのそれを見比べる。彼は苛立っていた。焦燥と表現しても差し支えはないかもしれない。とにかく彼は苛々していた。上手く事が運ばない所か、見るからに無能そうな少女に武器を台無しにされた――レイはそう感じずにはいられなかった。全てはあの人間が元凶なのだと。なら何故、ここで共に歩いているのかと。
「おい貴様。剣を元に戻せ」
 言葉を発する事で、レイはどうにか腹の底にある憤怒を落ち着かせたかった。同時に、出来るものならやってみろと、言外に告げた。
 もし出来なかったなら。彼は、容赦ない罵倒の数々を浴びせるだろう。それは何も知らない少女にするにはあまりに残虐すぎる。
「やってみるね」
 レイの予想に反して、ミサキは楽しそうに後ろを振り返った。彼は一瞬だけ動揺の色を見せたが、すぐに剣の柄をミサキに向けた。
 腕輪の中の光が飛び交い、飛び出す。剣の柄に飛びつき、刃の形を作りながら伸びていく。それは鮮やかな手品のようなものだった。光が弾けると、そこには刃を取り戻した剣の姿があった。
「こんなに簡単にできるんだ」
 ミサキはまるで他人事のように驚いてみせた。力を使った代償として、腕輪の光は僅かに減っていた。
「やはり見事だな」
 ロウシェルトは現れた刃に指を滑らせる。自身の指が切れた事を確認すると、嘆声を漏らした。同時に、ロウシェルトの胸中の不安の塊はより肥大化した。何も知らないような顔をしてもしや何か企みがあるのではと、勘繰らずにはいられないのだ。ユニスティル王国騎士団総隊長としての責務に近いのかもしれない。
 それに対して、レイは元よりミサキを信用していない。ミサキは一見庇護されているようでいて、ただ監視されているだけだった。逆にミサキは二人に無上の信頼を寄せていた。それは彼女が何も知らないからこそであった。
 お互いの胸中を知らないのは、果たして幸運だと言えるだろうか。少なくとも、ミサキが“本当に何も知らない”事をロウシェルトが知り得たならば、同情を寄せるだろう。果たしてそれをミサキが望むのかは、別の話になる。
 二人がミサキに懐疑心を抱き、惨憺たる労力の一部を割いている限りはこの旅が以前より楽になる事などないだろう。それにロウシェルトは気付かないのか――否、気付いていながら抗えないでいる。ロウシェルトは守らねばならない。まだ若い少年を。そして見知らぬ少女も。絶対にユニスティル王国まで連れて帰らねばならないのだ。だからこそどんな瑣末な疑惑をも無視する事はできない。その気苦労を若い二人が知る事はできないだろう。
「あまり力は使わない方がいい。身体に障るだろう」
「大丈夫。必要な時にしか使わないよ」
 ミサキは相好を崩す。その邪気のない笑顔で、ロウシェルトは全てを信頼してもいいのではないかと思ってしまう。その度に、彼は自分を戒めた。
 ずっと黙然としていたレイは、ようやく口を開く。
「何故なんだ」
 それはあまりに小さな声音。そして噴火したかのように、突然その言葉はマグマのように噴き出した。
「何故なんだ! 何の苦労もしてない貴様が、何故その力を手に入れられたんだ!」
「やめなさい、レイ」
 ロウシェルトは軽く咎めたが、レイの耳には全く入っていなかった。一度口に出してしまった本音は、連綿と続いていく。それは、彼の中でちりちりと燻っていた嫉妬だった。
「何も知らないふりをして、僕達を謀つ心算なんだろう! 本当の事を言え!」
「知らないよ。本当に何も知らない」
 レイとは対照的に、ミサキは泰然とさえしていた。彼女の大きな瞳に嘘など欠片もない。だからこそ眼差しは純粋なのに真っ直ぐで、鋭い。
「信じられないなら、その剣で斬ればいいよ。私は逃げないし、隠れない」
 ミサキは自らその剣先に近付く。あと一歩でも前に出てしまえば、その刃は彼女の首を簡単に貫いてしまうだろう。
「今の私には、二人以外に頼れる人がいないから」
 薄い皮膚以外に、彼女は自身の喉を庇保したりはしない。
「……怖くないのか」
「うん。レイは私を殺したりしないでしょ」
 言葉を合図にしたみたいにレイは剣を下ろすと、ロウシェルトが笑い出した。レイは表面上、あくまで冷静を装っていたが青い瞳は動揺を隠せないでいた。ミサキもロウシェルトも、そんな彼の様子には気付かない。
「恐れ入った! ミサキさんは肝が据わっているな。我が王国騎士団にも貴女のような人物はなかなかいないよ」
「じゃあその騎士団に私も入れるかな」
「武術さえ身に付ければ、ミサキさんはすぐに幹部クラスになれるだろう」
 ミサキは破顔する。ロウシェルトはミサキを全て信用した訳ではないのに――だから罪悪感に、ロウシェルトはその身を潰されそうになるのだろう。彼が実直である分、その意識は重い。
「さあ、先へ進もう。この辺りは危険生物が多い。できるだけ早く抜けたい」
 ロウシェルトが先導すると、ミサキ、レイの順番で後に続く。レイは彼女の後ろ姿を見て沈思していた。到底理解の及ばない彼女の言動に対して。
 レイは考えたが、しかし、わからなかった。彼は苛々していた。だが矛先は既に、ミサキから自分自身へと変わっていた。レイは、天使とミサキの力を認めざるを得なかった。
 木が広げる枝葉の向こう側の陽光は、既に橙色を帯び始めている。もう日没はすぐだった。

*    *    *    *    *


「レイも早く休みなさい」
「いえ。ロウシェルト隊長こそ休んで下さい。奴が不審な動きを見せようものなら、僕は即座に斬り捨てられます。隊長は寛容なので、きっと奴を許してしまいます」
 疾うに半宵は過ぎていた。森の夜は文目も分からない程に暗い。唯一、焚き木を燃やす炎だけが辺りを照らしている。風が吹いて炎が揺れる度、既に熟睡しているミサキの頬で影が躍った。ミサキは彼らが寝具を何も持っていなかった事に、不満の色を少しも見せなかった。一般人であるはずの年頃の少女が地べたに寝転がり、夜を明かす事。普通であってはならないし、そもそも長旅に少女を連れ歩くなどユニスティル騎士団にしてみれば論外だ。彼らの騎士団の構成の殆ど――全員と言っていい程に男性が占めているのだから。
「彼女は何もしないさ」
「ロウシェルト隊長はこいつを信用しているというのですか」
 レイの眉間に皺が寄る。
「私も全てを信用している訳ではない。こう言ってしまっては信用してくれている彼女に悪いのだが……納得のいかない事があまりに多すぎる」
 “納得のいかない事”――それはレイも同じ考えだった。何故突然現れたのか。何故何も覚えていないのか。何故、天使の腕輪の適応者となれたのか。何故……それがあまりに多すぎた。
「だが彼女は知らないと言うのだ、仕方ないだろう。私達の任務は彼女を王国へ連れ帰るのみ」
「本当にそれでいいのでしょうか。奴が国王の暗殺を企てる者だったらどうするのですか」
「レイ。私は彼女の“現時点で”何も知らない、という主張は信じている。お前はそこまで彼女を信用できないと言うのか」
 レイが言葉に窮すると、代役とでも言わんばかりに焚き木が爆ぜて音を立てた。炎が激しく揺らめく。炎に照らし出されたロウシェルトの顔付きは温厚な部分が剥がれ落ち、その精悍さだけが残っていた。レイはその度に臆する。レイがどんなに成長し、優秀になろうと、決してロウシェルトには敵わないという何よりの証明だった。
「自ら剣の前に立つなど、相当の覚悟がなければできないだろう。それはお前もわかっていると思ったんだがな……レイ」
 レイはロウシェルトの視線から逃れるように顔を逸らす。その表情はまるで、親に叱られて泣くのを我慢するかのような、そんな顔だった。
 彼とてわかっていた。ミサキはそんな事などしないと。矜持の高さ故に、容易に認められないだけだった。
「もう休みなさい」
 今度はレイも素直に従った。木に靠れかかり、瞼を閉じる。
 唯一、ロウシェルトが作ってくれた逃げ道だった。

 レイが眠りの世界へ堕ちたのを確認すると、ロウシェルトは溜息を吐いた。
「素直じゃないな。全く、困った部下だ」
 言葉とは裏腹に、声音は慈愛に満ちていた。今日のレイは普段から比較すれば素直すぎるぐらいだった。憤怒を抱えていても、感情を露にしてまで怒鳴り散らす事はなかった。彼が感情を抑えられないのは自分に苛立っているからだろう――ロウシェルトはそう考えていた。だから彼は期待してしまう。起爆剤は間違いなくミサキの存在。彼女はレイにいい刺激を与えてくれるかもしれない。
「猜疑心を抱きながら彼女に頼ろうなど……厚顔無恥とはこの事か」
 ロウシェルトの胸中の思いに呼応するかのように、炎が一際揺らめいた。



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