memory 1-1


 陽光は、疾うに彼らを追うのを諦めていた。
 競うように育った木々は、森の深奥に進む程にその枝葉を自慢するかのように広げていた。彼らの歩く場所に明るい光は届かない。木々が存分に栄養を受けた後のおこぼれが、申し訳程度に落ちているだけである。
 彼ら――二人のうち、大柄な男の方が歩を緩めた。後ろに続いていた少年は足を止める。
「どうしましたか、ロウシェルト隊長」
 凛とした声が、湿り気を帯びた空気を切り裂いて消える。少年の声音には感情がこもっていなかった。それに合わせて青い頭髪と瞳、綺麗なのに鋭く、中性的で美しい外見。それらの要素は全て彼を冷たく見せた。
「ああ、洞窟はこの先だ。気を抜くな」
 大柄な男の方――ロウシェルトは、線の細い少年をさり気無く気遣う。
「はい」
 彼らの前に立ちはだかる大きな岩は、既にひとつの森林となっていた。土や岩は見事なほど緑に侵蝕されている。その中にある大きな穴が、二人を別世界へ誘うように待ち構えているかのようだった。
「レイ、暗闇は平気か」
「僕に怖いものなどありません」
「ははっそうか。愚問だったな」
 ロウシェルトは優しげな顔を綻ばせて笑ったが、それでも少年――レイは表情ひとつ変えずにただ、ロウシェルトに追従していた。剣の扱い方や知識が他人より秀でていたとしても、レイには決定的な何かが欠落していた。今回のような野宿の続く辛い旅でも文句も弱音も吐かず、無駄口も叩かなかった。つまり、レイは普段と何も変わらなかった。
 彼らは真っ暗な洞窟の中へと足を踏み入れる。

 彼らはユニスティル王国騎士団総隊長のロウシェルト・マクヴェンネスと、その部下のレイ・クラウドである。
 ユニスティル王国騎士団は六つの隊に分かれている。それらをまとめる役目を担っているのが総隊長であるロウシェルトだ。レイも本来であれば六つの隊のどれかに属してその隊長に付き従うのが普通だ。しかしレイは国王のお気に入りで、その為に総隊長直属の部下として特別扱いを受けている。勿論、心良く思わない者は大勢いた。その環境がもしかしたら今のレイを育てたのかもしれないとロウシェルトは思う。その度に、能天気な国王を恨まずにはいられない。嫌っているわけではない。寧ろ尊敬し、一生の忠誠さえ誓っている。ただ、レイがこうなってしまった原因の一端を担いでいる事実に気付かない事が憎いのだ。
「ここが天使の洞窟と言われる所以を知っているか」
「ここで天使が殺されたからです」
「……せっかく説明しようと思っていたのに、残念だ」
 この世界で天使は、人間の姿をした高度な魔法使いとされてきた。しかし人間が何の道具もなしに魔法を使えるのは、才能がある中でもほんの一部のみ。故に魔法の使えない人間は恐くなったのか。或いは殺意さえも孕んで肥大化した嫉妬だったのか、今となっては殺害の動機など誰にもわからない。あくまで全ては噂なのだから。
 ロウシェルトが腰に取り付けたバッグを開けた途端に、黄金色の光が溢れ出した。暗闇は黄金色に塗り潰され、辺りは真昼のように明るくなる。
 レイはその光源を探す。いつの間にか光源はロウシェルトの掌中にあった。
「まさか、その腕輪は」
「腕輪をここに置きに来た。これが今回の任務だ」
 ロウシェルトが、レイの眼前にその光源である対の腕輪を差し出した。レイは無言で見つめる。それはあまりに綺麗で神々しい黄金色の存在。
「私達は任務を遂行するのみだ。わかるな、レイ」
「……はい」
 レイにしては珍しく、僅かだが返事に曇りがあった。彼は普段、言い淀んだりしない。いつでも白黒はっきりさせるのだ。
「適応者がいない。ならばただの危険な腕輪だ。それに……」
 ロウシェルトはそこまで言って、言い淀む。レイが何かを言いふらしたりするような少年でない事は、ロウシェルト自身が良く知っている。言い知れぬ不安が彼をじわり、じわりと襲っていたのだ。一体何がロウシェルトを不安にさせているのかは、彼自身にもわからなかった。しかしこれから起こる何かに対して、長年の勘が彼自身に警笛を鳴らしていたのかもしれない。
「国王様でさえ拒絶したのだから」
 レイは顔を顰めた。その胸中で何を思ったかは、共に過ごす時間の多いロウシェルトにさえわからなかった。
 黄金色に輝くその腕輪は、天使の腕輪と呼ばれていた。魔法を使えるようになると言われている腕輪。しかし今は、誰も天使の腕輪などとは呼んでいない。誰もが腕輪をはめた瞬間に拒絶され、怪我をするか或いは最悪の場合――死に至っているのだから。無事でいた者が現れない限り、これはただの呪いの腕輪なのだ。
「試してみるか?」
「いえ。僕に天使の力など必要ありません」
「それは頼もしい」
 彼らが行き止まりまで進むと、岩がまるで十字架のような形をして地面に突き刺さっていた。
 天使を殺した後、人間はこの粗末な墓を建てたというのだろうか。彼らに知り得ることはできない。
 ロウシェルトは花を手向けるかのように、二つの腕輪をそっと置いた。腕輪は黄金色の光を惜しみなく零れさせ続けている。
「行こう。日が高いうちに出来るだけ進みたいからな」
「はい」
 ロウシェルトが踵を返すと、レイもそれに倣う。だがレイは振り返る。零れる黄金色の光をその青い瞳で受け止める。瞳の中で光がゆらゆらと揺れている。まるで彼を支配してしまうかのように。
「レイ」
 もう既に先に進んでいるロウシェルトから、声が掛かる。
「すみません」
 今度こそレイは、振り返らないと誓った――なのに、彼は振り返らざるを得なかった。光が激しく動き、輝きを増したからだ。腕輪を誰かが動かしたという事なら彼も納得いっただろう。しかし、ここには彼ら以外誰もいない。
「誰だ!」
 光源が動く。人影が揺らめく。あまりに奇異な出来事。あまりに不可解な出来事。レイは鞘から剣を引き抜くと、真っ直ぐその光源に向けた。
「レイ、どうした」
 ロウシェルトが戻ってくる。その手はしっかりと剣の柄を握っている。
 光はざわざわと激しく蠢き、まるでその人影の輪郭を喰らっているかのようだった。その度に、光は徐々に落ち着きを取り戻す。
 その中心にいた人物は、彼らの予想を大いに裏切った――特に変わった所のない、平凡な少女だったからだ。
「貴様、いつから此処にいた! どうやって入った!」
 何の変哲もない少女だった。栗色の髪は肩辺りで切り揃えられており、ぱっちりとした大きな瞳以外にはこれといった特徴はない。
 少女はその両手に腕輪を持っていた。レイの言葉など聞こえないかのようにじっとそれを眺めている。
「綺麗」
 少女はぽつり、とそれだけ呟いた。
「質問に答えろ! さもなくば、斬る!」
 レイの激昂した声が洞窟内に響く。高まりが抑えられないのは経験の未熟さなのか、若さなのか、はたまたその性格故に人より抱えているであろう鬱積か。
 ロウシェルトは顔を僅かに打ち顰める。レイはあまりの怪事に遭遇した為に冷静な判断を怠っている――それがどれぐらい危険な事か、ロウシェルトは痛い程に知っている。
「止めるんだ、レイ。レディに失礼だろう」
 そう言うロウシェルトの手はしかし、依然として剣の柄を握っていた。
「答えろ!」
「レイ! 止めろと言っている!」
 レイのそれよりも一際大きな声が木霊した。呼応したかのように光が揺れる。レイは唇を強く噛み締めると、渋々と剣を下ろした。しかし、その鋭い眼光は今にも少女を射殺してしまいそうな程に、獰猛な光を宿していた。
 少女はだが、そのやりとりを聞いていたのかいないのか、ようやくロウシェルトに視線を向けた。
「怖い思いをさせてすまなかった。私はユニスティル王国騎士団の総隊長、ロウシェルト・マクヴァンネス。こちらはレイ・クラウド。私の部下だ」
 レイは少女を睨め付けるのを止め、代わりにその存在を黙殺するかのように顔を背けた。ロウシェルトは苦笑する。
「良かったら君の名前を教えてくれないか」
 ロウシェルトはレイに話しかける時よりも優しく、親しみやすいように笑顔を作る。他人の警戒心を解くには最も効果的だという事を彼は知っている。
「名前はミサキ。何とか騎士団なんて知らないけど、そこの青い美少年が危険極まりない事くらいなら知ってる」
「貴様にだけは言われたくない!」
「レイ」
 ロウシェルトが窘めると、レイは不服そうにしながらも口を閉じた。
「どうやって此処に来たのか訊いてもいいかな」
「どうやってって言われても……気付いたらここにいた。何も知らないんだよね、名前以外」
「ロウシェルト隊長! こいつは僕らを馬鹿にしています! 即刻殺すべきです!」
「そう興奮するな。あまりミサキさんを怯えさせるんじゃない」
 そう言うロウシェルトも、ミサキと名乗る不審な少女に対して一切警戒を解いていなかった。彼の癖のようなものだ。
「それよりこの腕輪すごい綺麗だね。ちょっとはめてみようかな。入るかな?」
「ミサキさん、それはちょっと、待とうか」
 流石のロウシェルトも焦り始める。もし腕輪が彼女を拒絶したら……。
「おい貴様、死にたいのか!」
 何も知らない、と豪語するミサキが腕輪の事を知るはずもないのは至極当然であった。
 レイはミサキを止めようと地面を蹴った。
 光が大きく揺れる。レイの左手はミサキの腕をしっかりと捕えていた――しかし、手遅れだった。ロウシェルトはミサキの両腕にその光がある事を認めると、苦渋の表情を浮かべた。
「目も綺麗だね。宝石みたい」
 ミサキは間近で見たレイの瞳に率直な感想を述べる。二人の男の胸中も知らず、それはあまりに暢気で場違いな発言だった。
 沈黙が落ちる洞窟内に、光は更に溢れ出した。まるでミサキを包むように。または喰らうように。レイは堪らず手を離し、後退した。
「――無事でいる者が現れる日が来ようとは、思わなかったぞ」
 その場にいた誰のものでもない声が響いた。そして三人は見た。光の世界に、何者かがゆっくりと現れた事を。そして聞いた。その声を。三人以外に突如として存在が現れた事を、誰もが否定できなかった。
「まあ、まあ。そう警戒するな。私は腕輪そのものだ。天使とでも呼んでくれればいい。決して怪しい者ではないぞ」
 ミサキの隣に、まるで最初から居ましたとでも言うようにその“天使”はいた。肌は白く、着衣は純白のただの布にしか見えない。金髪に滅紫の瞳、整った顔立ち。何も人間と変わりなかった。
 ロウシェルトとレイは、もう警戒心を隠せないでいた。突然現れたミサキ。俄然と光の中から姿を現した、自称天使。怪奇現象としか例えようのない出来事の連続。二人は自分自身すら疑い始めていた。
「謎の少女の次は、天使さんか。……これは面白い」
 ロウシェルトの掌は、冷汗で湿っていた。これまでの経験の何もかもが、今の状況では何の役にも立たない。だがロウシェルトは、何かあったらレイを守らねばならない。それは彼が隊長であるからか、元々の気質だからなのか。ロウシェルト自身、わからない。
「この状況を面白いと表現するなど、おぬしこそ面白いではないか」
 天使は満足気に笑う。
「おぬし、名は」
 しかしその質問はロウシェルトに向けられたものではなかった。ぼんやりと天使を見ていただけのミサキに向けての言葉だった。唐突に話を振られたミサキは、一瞬だけ吃驚したような顔をしてから自身の名前だけを呟いた。
「ではミサキ。おぬしに力を与えよう。私は約束を違えたりなどしない」
 今の今まで沈黙の世界に入り込んでいたレイが、突如としてそこから飛び出した。
「意味のわからない事ばかり言うな!」
 レイは剣の切っ先を天使に向ける。ロウシェルトは黙して様子を見守る。いざとなったら、彼はレイの身代わりにでも何でもなるだろう。それが当然の義務だと思っているのだ。
「ふむ。納得できぬ者もいるようだな。ではここで見せようではないか。ミサキ」
「なに?」
 ミサキは男二人に比べて――比べずとも、十分すぎるくらい落ち着いていた。彼女は驚いていない。目の前の現実を全てそのまま受け入れている。ミサキ自身が本当に何も知らないという徴証だった。
「最初は少し、難しいかもしれぬからな。私が手伝う。指示に従ってくれれば良い」
 天使はミサキの後ろに立つと、腕の関節部分を優しく握った。男二人は、その様子を黙って見つめる。レイは剣の切っ先を下ろそうともしなかったが、天使はもとより気にしてすらいないようだった。
「力を抜いて。腕輪に意識の集中を」
 腕輪は光を暴れさせる。腕輪の中では、小さな無数の光が飛び交っていた。腕輪は、金色の光の粒を凝縮していた為に金色に見えていただけで、それは元より水晶のように透き通っている。
「まずは、そうだな。あの刃を消してやろうか」
 できるはずがない、とレイは思おうとしていた。そうしなければ許容外の出来事に、平静を保つ自信がなかったのだ。そんなレイの様子を気にしながらも、ロウシェルトは息を止めては吐いて、自身を落ち着かせようとしていた。
 光が動いて、生きているかのようにレイの剣を包んだ。離すまいと、レイは柄を尚更強く握りしめた。
 確かに、柄は離さなかった。光が弾けて消えた時にはしかし、その手に先程までの重みは感じられなかった。
 柄の部分だけを残し、剣は消えたのだ。
「おお、すごい」
「柄の部分だけの剣など、最早ただの棒」
 天使は面白そうにくつくつと笑う。
 レイが何度見ても、柄の先には何もない。レイは声を出せずにただ、剣先のあったはずの部分を見つめていた。ロウシェルトの口から自然と感嘆の溜息が漏れる。
「凄いな天使さん。これだけの魔法を容易に操れるのか」
「人間が魔法を使うのは大変らしいな。しかし私には力などないさ。これは腕輪の力。もとい、主であるミサキの力」
 ロウシェルトは無意識に唾を飲み込んでいた。彼は極度の緊張から、喉の奥がひっつくくらいに乾いていたのだ。
「む。ミサキ、少し光の使い過ぎだな。力の根源は腕輪の中の光。それがゼロになれば私が姿を保っているのも難しくなる。時と共に回復はするが、使い過ぎはおぬし自身に負担が掛かる」
「そっか。気を付ける」
 天使の姿は次第に、透過しながら光に包まれていく。
「何でもできる訳ではない。過信するなよ。また会おうぞ」
 光が弾け、天使は消えた。確かに腕輪の光は減っていた。小さな光の粒はふよふよと腕輪の中を彷徨っている。
「ふざけるな! 出て来い!」
 レイは憤りを隠せなかった。恐怖を憤怒で塗り潰すようにしなければ、彼は立つ事すらままならなかったのだろう。それは若さ故の未熟さだった。ロウシェルトはひとつ溜息を吐く。レイが取り乱してくれたおかげで、逆にロウシェルトは冷静になれたのだ。
「落ち着くんだ、レイ。腕輪の適応者が現れた……それだけの事だ」
「これの何処かそれだけの事なんですか!」
 それだけの事では済まされないのを、ロウシェルト自身もよくわかっている。わかっていたが、納得するしか道はないのだ。
「魔法が使えるのは限られた人間だけです! ましてや天使の腕輪の適応者など……! 何者かすらわからない奴が使えるなんて、有り得ない!」
「同じ年くらいなのに子ども扱いされたくないんだけど」
「貴様は黙れ!」
 レイは剣の切っ先を向ける真似をした――真似にしかならなかったのは、その剣には刃の部分がないからだ。レイはその事を忘れていた。それが面白かったのか、ミサキは吹き出す。レイは自身の失態に耐えられず、顔を紅潮させた。
「面白いね、レイって」
 ロウシェルトは反射的にレイの両肩を押さえる。そうでもしなければ、飛び掛かって殴る事ぐらいはしただろう。
「ロウシェルト隊長、離して下さい!」
 ――レイにとって、彼女は地雷のようだな
 ロウシェルトは、その地雷少女を暫く見つめていた。    



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