memory 2-3


 レイは苛々していた。しかし彼は、自分自身が何に対して憤りを感じているのかがわからなかった。だからこそ余計に腹が立った。自分自身の事が何もわからないなんて有り得なかった。以前の彼ならば自分自身の事は何よりわかっていたはずだし、頻繁に葛藤を抱えては思いあぐねたりする事などなかった。
 思えば、海底洞窟に入ってからずっと考え通しだった。後頭部が時々思い出したかのように痛む。その度に思考がクリアになって、葛藤が霧散してくれる。これがなければ彼は、延々と同じ事ばかりを繰り返し繰り返し考えては苛々していただろう。だから冷静に自分を分析できる今の彼は少しまともであるとさえ言える。
 レイは一つ、殊更に気にしている事があった。――ヴィリアンの事だった。彼はヴィリアンに対して懐疑心しか抱いていなかった。岩橋を渡り終えた彼女が口にした言葉が、未だレイの耳に纏わりついているようだった。
 ――死んじゃえ
 怨毒と殺意に彩られた言葉。恐ろしい声。自分より年下の少女がそのように深い怨恨を抱いている事が、レイは信じられなかった。全身を震慴させた。吐き気さえも覚えるその殺意に、後頭部は激しく痛んだ。そしてミサキは落ちた。ゼノアイナと共に。レイにはとても、これが偶然の出来事とは思えなかった。しかしヴィリアンは喋らないだろう。その黙秘さえが肯定だとでも言うように。
 ミサキがゼノアイナに守られながら岩に乗って浮いてきた時、表現できない複雑な感情が確かに心の奥底にあったのを、レイは認めていた。しかしその感情が何なのかはわからず、ただ苛立ちに加担するだけだった。
 反してゼノアイナは大人だった。その場を和やかにしようと色々喋るのだが、しかし、レイには耳障りでしかなかったのだ。ヴィリアンの事。ゼノアイナの事。そして、ミサキの事。全員の事をぐるぐると考えていたから。八つ当たりだって事くらい、レイにもわかっていた。ミサキが怒る理由に予想が付いても、だからこそ余計に腹が立った。レイは子供だったのだ。
 ――ゼノアゼノアうるさい!
 それはレイの本音だった。
 ――こんな危険に晒されて、助けもできなかった男をどうして庇う!
 しかしそれが声になる事はない。心の奥底で、悲鳴にも似た声で叫び続けている。ミサキには届かない。届くはずがない。
 “だってレイは何も言わないじゃん!”――当然だった。伝える事をしないのにわかって貰おうなんてのは酷く傲慢な考えだ。
 でも言えるはずがない。今のレイには何も、言う権利はないのだ。
 僕なら助けられた、など事後だからこそ軽々と思えるのだろう。しかしそれは誤想。そして不遜。行動も起こしていなければただの傍観者でしかなかったレイには、発言の資格すらない。ゼノアイナと同じ状況になって、それでもミサキを助けようと手を伸ばし助けたならば堂々と主張すればいいのだ。僕なら助けられた、と。
 だからレイは言わなかった。わかっていた。自分が子どものような苛立ちをぶつけている事。
 怒鳴るように言葉を吐いたら、レイの頭は冷静さを取り戻した。後頭部が痛んでいた。ミサキが無理に笑っていた。レイは何か言わなければ、と思う。しかし矜持が邪魔をする。そして、ゼノアイナも邪魔をする――“オレと一緒に来てもいいんだよ”。
 ふざけるな。何を言っている……しかしレイは、それらの言葉を全て飲み込む。代わりに口からするりと出てきたのは、虚言。しかしそれはレイが自分自身に言い聞かせているようでもあった。
 そうだ、これは任務。私情など塵ほどもない。自分に言い聞かせる。何度も、何度も。
 だからミサキを傷付けた。自分の矜持の為に。レイは逃げるように顔を背ける。何て卑小な自分。何もできない自分。泣きたい。怒りたい。どうしようもない……だが許せなかった。途中からちょこっと出てきたゼノアイナの方がミサキをよく理解しているようで、許せなかった。
 それはきっと、ゼノアイナに対して無意識に感じていた劣等感。レイは気付けなかった。だから彼をただ苦手なのだと勘違いしていた。劣等感が顕現しないようにとレイが無意識に敷いた自己防衛策だという事を。
 無理に笑おうとするミサキに、レイはだからこそ苛立つ。何故、それ以上怒鳴ってこない。何故、なかった事にしようとしている。腹が立って仕方なかった。何もわかってくれないミサキに。……その考えの何と愚かな事。彼が気付かなければ、問題は永遠に解決しないのに。

 海底洞窟を抜けると、夕焼け色が彼らを出迎えた。空が作り出す橙色が、海に映し出されて揺らめいていた。粒子のように細かい砂が、さらさらと風に乗っている。彼らが踏み締めた地は砂浜だった。
「ようやく出られたなー。やっぱり日の光はいいね!」
 ゼノアイナは大きく伸びをする。彼らはまた日の光の下に出られた事に安堵していた。勿論、ヴィリアン以外だが。
「おおっユニスティル城下町がすぐ側に!」
 海の反対側にはすぐに、ぐるりと塀に囲まれたユニスティル城下町がある。城だけが突出していて、外からでも窺い知れる。それ以外の建物全てを隠してしまう城壁は、鉄壁の守りで持って外敵の侵入を防いでいた。
「ミサキちゃん。オレ達は城下町に用がない。レイ君とはここでお別れになる。だから一緒に行こう。任務がまだなら待ってるし」
「ミサキは行きません」
 珍しい声が自分の名前を呼ぶものだから、ミサキは目をまるまると見開いた。いつも通り澄ました顔のレイがゼノアイナを見据えていた。
「レイ君には訊いてないんだけどなぁ」
 ゼノアイナは困ったように笑う。しかしレイの表情は変わらない。ミサキは様子を見守る。
「すみません。語弊がありました。行かせません、です。任務がなくてもです」
 ゼノアイナもミサキも、レイの全身を見る。爪先から頭頂部まで何度も見て、そしてやはりレイだと結論を出す。
「そ、そうか。じゃあ今回は諦めるよ。二人ともありがとね。おかげでまた生き伸びたよ」
「いえ。此方こそお世話になりました」
 レイは深々と頭を垂れる。ミサキはようやく我に返ると、一緒に頭を下げた。
「本当にありがとう」
 ミサキの顔からは、洞窟を抜ける前の沈鬱な気持ちなど微塵も感じられない。寧ろ綻んでさえいた。
 レイがどう結論を出し、決着を付けたのかは本人さえもよくわかっていない。しかしここで口を出さなければ、永遠に後悔すると――レイは直感に近いもので感じていた。だから、何も考えないで口を挟んだ。故に彼は自分の発言をもう覚えていない。
「また会いに来るよ。その時もう一度ミサキちゃんに訊こうかな。それまで保留って事で。じゃあね。行こう、ヴィリアン」
 ゼノアイナがヴィリアンに視線を向ける。それが余程嬉しかったのか、ヴィリアンは満面の笑みを見せた。あまりに邪気のない笑顔。ミサキは、おぞましい表情を浮かべていた彼女を忘れてしまうのだった。
 去って行く後ろ姿を、レイとミサキはしばらくの間黙って見送る。初めて二人の空気に訪れた、静穏の時だった。しかしそれはすぐに、レイによって崩される。
「あの兄妹は危ない。あまり近付くな」
 ミサキにすれば全く根拠も何もない言葉。それに憤りを隠せず、ミサキが喰ってかかった。
「二人を信用してないの? 確かに私は、ヴィリアンに嫌われてるかもしれないけど……きっと分かり合える」
「お前は甘い。何もわかっていない。特に妹は信用ならない」
「何もわかってなくない!」
 怒り心頭のミサキは、自分が無茶苦茶な事を言ってるのに気付かない。それ程の余裕はない。レイは彼女を怒らせるつもりなどなかった。しかし彼はどうしようもなく言葉の選び方が拙劣だった。
 レイは怒らせてしまった事に僅かに狼狽する。怒りに怒りを返しては、また同じ繰り返しだ。レイは眉根を寄せる。どうすべきか、今の段階で考えられる最善策を探す。レイはヴィリアンのあの発言の事は触れたくなかった。触れたくない理由が彼自身よくわからなかったが、とにかく言いたくなかった。ならばと、他を探す。しかし、それはあまりに恥ずかしい。
 ――羞恥心をお供してまで言わねばならないのか!
 レイは最早混乱していた。勢いのまま言い放つ。
「心配なんだ! お前が世間知らずのお人好しだから!」
 ミサキが面食らったように固まる。レイの頭の中で自分の言葉が鳴り響いている。“心配なんだ!”。忘れたはずの後頭部の痛みが復活する。恥ずかしい奴、とでもからかいにやってきたかのように。しかし発言は撤回できない。もう彼女の耳に届いてしまったのだ……レイの顔はみるみるうちに紅潮していく。
「……世の中いい人間ばかりじゃないという事だ。とにかく、気を付けろ、馬鹿!」
 レイはミサキに背を向けると、すたすたと浜辺を歩き始める。惚けて動かなくなってしまったミサキを置き去りにして。しかし暫くすると振り返る。
「わかったならさっさと歩け。そこにいて波に攫われようが助けないからな」
「うん!」
 ミサキは満面の笑顔を見せると、レイの元へ走る。砂浜に足を取られて転ぶミサキを見て、レイは小さく笑う。
「そんな所で転ぶのはお前と幼子くらいだ」
 ミサキは砂だらけになった顔を上げて、レイを睨む。彼は小さく溜息を吐くと、彼女の前まで来て手を差し出した。しかしミサキはその手を見つめるばかりで、取ろうとしない。
「いつまでそうしているつもりだ。さっさと立て」
 ミサキは視線を上げて、レイの顔を見る。しかしその顔は、恥ずかしいのか、横に逸らされていて、視線を合わせるのは叶わなかった。ミサキは黙ってその手を握ると、勢い良く立ち上がった……と同時に、レイは顔面から砂浜にダイブした。
「んぐっ、おい! どういう事だ!」
 反動で起き上がったミサキを、今度はレイが睨む。
「怒れる砂のお化けだー!」
 そう言いながらミサキはどんどんと遠ざかって行く。レイは立ち上がると、砂塗れの全身を気に留めもせず、その後を追う。
「くっ……人の厚意を踏み躙る恥ずべき行為……! 許さん! 逃げるな!」
 レイは久方ぶりに抜刀する。しかしそれでミサキを斬ろうなどとはもう、露程も思っていなかった。



 TOP →
110904