memory 2-1 ひたり、ひたり、と冷えた水が突出した岩を伝って落ちている。それはまるで規則的な演奏であるかのようだ。そのメロディーと相反するように、地面にも天井にも無数に生えている岩は鋭く、人を簡単に貫き殺してしまいそうだった。 季節を感じさせないこの場所は、どんな時だろうとひやりと冷たい空気を漂わせているのだろう。温度を知らない水を含んだ空気は、生物の体温を悠然と奪っていく。それはまるで食事をよく味わうように。もしくは人を弄り殺すように。 レイの身体は既に大分冷えていた。重い瞼を持ち上げて僅かに肢体を動かす。全身に残る気だるさは確かに、無事である事の証明だった。 彼の視界に入る情報だけでも、ここが恐らく海底洞窟だろうと予想が付いた。ユニスティル大陸には海底洞窟がある。照明も取り付けられている事から、それはほぼ間違いなかった。それにシュロスカ付近に海底洞窟はなかったはずだ、とレイは思う。どうやって入ったのかはわからなかったが、ミサキの力である事に間違いない。上体を起こす。身体は湿っているが濡れていない。 「うっ」 船で打ちつけた後頭部が思い出したようにずきりと痛んだ。じわじわと痛みを訴えるそれはしかし、徐々に慣れてくる。打ち所が良かったのだろう、レイは胸をなでおろすとぐるりと辺りを見回す。ゼノアイナがミサキを揺り起こさんとしている。ヴィリアンは感情の見えない瞳で、ゼノアイナをじっと見つめていた。レイはミサキの腕輪の光がほぼない事を確認すると、小さく舌打ちをした。 「そいつは暫く起きません」 「おっおお。レイ君も起きたか。どこも怪我してない?」 「はい」 レイの後頭部の痛みが、まるで忘れるなとでも言うように主張を始める。しかし彼は無視する。表情にも一切出さない。他人に心配されるのは苦手だった。 「で、何を根拠にしばらく起きないって言ってるのかな」 ゼノアイナはミサキを揺するのを止め、レイの瞳を真っ直ぐに見た。虚偽や秘め事は大罪で、絶対に赦免しないと訴えかけてくるような鋭さがあった。偽りは死をも連想させ、レイは真実を口にする他なかった。しかし、ミサキのそれは“天使の”腕輪だという事だけを伏せて。それを聞いたゼノアイナは成程、とだけ呟くとミサキを背負った。 「ミサキちゃんを待ってたら、風邪引いちゃうからね。オレが背負うよ」 ゼノアイナは元より返事を待っていない。彼の言葉の目立たない場所に、頑強さが内包されているようだった。 「レイ君。ロウシェルトさんの行方はわかる?」 「海に飛び込むのを確認しました」 「なら安心だ! 早い所ここを出よう」 ロウシェルトは体力もある。泳ぎも得意だ。ボートに追い付く事など、レイ達の面倒を見るのに比べれば容易いだろう。 「ここ、ユニスティルの海底洞窟だよね。レイ君も仕事柄、知ってるだろうけど」 「一度だけ入った事があります」 「岩が脆くなってるよね。ヴィリアンはオレの側から離れない事。レイ君も十分気を付けて」 ヴィリアンは、ゼノアイナの背で無防備に眠るミサキに視線を縫い止めていた。兄を見つめるそれと違って、殺意とさえ取れる禍々しい敵意が含まれている。ゼノアイナは気付かない。否、気付く事など出来ないのだ。彼がヴィリアンを見る時はいつも、天使のような微笑みを浮かべているのだから。レイはヴィリアンを一瞥する。彼女の視線が含むその意味を、彼が理解するのは難しかった。しかし彼女から溢れ出る敵意は、レイを酷く不快にさせた。 深く眠るミサキを見ながら、レイは思い出す。意識を失う直前に見た光を。黄金色の輝きを。暖かい何かに包まれ、守られたような気がした。自身が無事でいる事実、腕輪の光が激減した事実。ミサキの力なのだと顕示しているかのようだった。 ――自分は何て脆弱な存在なんだ レイは知らなかった。これ程までに自身が非力だったなど。こんなにも貧弱、こんなにも無力――今まで生きてきた世界は一体何だったのか。ちっぽけなドールハウスで、外に世界がある事を知らずに生温く過ごしてきたと言うのか。 彼は確かにドールハウスの中にいた。危険な仕事もあった。いくつもの窮地があった。だがしかしそれは、あくまでレイに見合った任務だったに過ぎないのだ。それ以上に危険な仕事はいつでも、他の者達がこなしている事をレイは知らなかった。まだ子供だからドールハウスの中に閉じ込められ、守られていたのだ。 だからドールハウスの扉が開いてしまったのは、ほんの偶然だったのだ。来訪者――ミサキが許可もなしにその扉を開けてしまった。レイは外へ出てしまう。何の準備もなしに。ドールハウスでぬくぬくと過ごしてきたレイに、外は広大すぎた。 「どうしたの、難しい顔して」 ゼノアイナが心配そうにレイを覗き込む。しかしレイからしてみれば余計なお世話だった。 「元々です」 冷たくさえも聞こえる声。しかしゼノアイナは気にもせず、それ以上は何も言わなかった。レイは安堵する。彼はゼノアイナが苦手なのだから。 「ミサキは何故に限界を知らぬのだ」 その場の空気からあまりに調子の外れた声が響く。ヴェート兄妹は見知らぬ声に身構える。ゼノアイナはラスターをその目に確認すると、驚愕の色を隠せずにいた。 「え、何だよお前……何処から来た? どうやって?」 「……おや」 突然、ヴィリアンがゼノアイナの前に出る。その小さな身体で兄を守ろうというつもりだった。 「これは愉快。私は警戒されているようだ」 「当然だ。貴様の悪趣味にはうんざりする」 レイがラスターを軽くあしらう様を見て、ゼノアイナは少しばかり警戒を解く。しかしヴィリアンは相変わらず敵意を剥き出しにしていた。 「私は天使の腕輪そのもの。名をラスター。怪しい者ではない」 「……天使の腕輪? 十分怪しいし、胡散臭いけど」 怪訝な顔付きを隠そうともせず、ゼノアイナはラスターを睨み付ける。その手には短剣が握られていた。 「私は胡散臭いのか、少年よ」 「何故僕に訊く」 レイはさらりと受け流し、ラスターはやれやれと言った様子で再度ゼノアイナの方に視線を向けた。 「レイ君、知り合い?」 「天使の腕輪には人格が宿ってます。それが奴です」 「……へぇ。封じ込められた天使って事? 面白いね」 ゼノアイナは短剣を懐にしまうと、ヴィリアンを宥めるようにそっと両肩に手を置いた。ヴィリアンはゼノアイナを見て、それからラスターを鋭い視線で一瞥すると、彼の横に並んだ。 「おお、怖い怖い。愛ほど怖いものはないな」 「何しに来た」 レイにも冷淡な眼差しを向けられ、ラスターは小さく溜息を吐く。歓迎されてはいないらしい。それだけはラスターにもわかったようだった。 「全く、おぬしは力に頼ってばかりなのに私を邪魔者扱いするのか」 「何だと……」 安っぽい挑発など、普段のレイならば受け流せただろう。しかし、今はどんな煽動さえもレイの耳に纏わりつく。特に自身を謗るような言葉など、聞き流せるはずがなかった。 「事実を述べたまで。人間とは、私の力に頼らねば生きていけぬ矮小な存在だったのか?」 「違う!」 「ほう。ならばミサキに助けられずとも生還できたと申すのか」 レイは反論しようと口を開きかけるが、妨げるようにしてゼノアイナが彼とラスターの間に立った。 未だ眠るミサキの背中。それを軽々しく背負うゼノアイナ。自分よりずっと高い身長。それに視界を占領されては、レイは口を開くのを諦めざるを得なかった。 「天使の腕輪のラスターさん。あんたの言う事は尤もだ。人間はちっぽけな生き物だよ。だからってレイ君を虐めていい事にはならないよな」 「なんだなんだ。ちょいと揶揄しただけではないか。愛情の裏返しというやつだぞ。そう腹を立てるでない」 「相手を考える事だな」 レイはゼノアイナの背で、力強く握った拳を微かに震わせていた。それは怒りから来るもの。自身の至らなさに腹を立てていたからこそ。ラスターには事実を目前に突き付けられて、からかわれて。それをゼノアイナに助けてもらうなど、彼にとって屈辱以外のなにものでもなかった。だが込み上げてくる激憤は我慢しなければならない。ここで抑圧しなければそれこそ、ラスターの思う壺なのだ。感情に任せて怒鳴り散らすだけならば幼子でもできる。抑えられなければ、幼子となんら変わりはないのだから。 「何もからかっていただけではない。忠告だ。力に傾倒しすぎるな。魅入られた者こそ滅ぼされようぞ」 「おっかないな」 「さて。私はそろそろ消えるとしよう。腕輪の光が少ないと姿を維持してるのも辛いからな」 何の言葉も受け付けないとでも言うように、ラスターは喋り終えたと同時に光となって霧散した。残された彼らは、消えた場所に光の残像でも見ているかのようだった。そうして自然と彼らの視線はミサキの腕輪に集まる。極少量の光の粒が寂しげに腕輪内を浮遊していた。 「驚いたよ。これが噂の天使の腕輪だったんだな。つまりミサキちゃんは腕輪に拒絶されなかったって事か。オレなんか手に持った瞬間、腕ごと吹っ飛ばされそうだ」 「あまり驚いてるようには見えませんが」 「この仕事やってれば、嫌でも色んなものが見れちゃうからね。これでも結構驚いてるんだけどなー」 やはり苦手だ、とレイは思う。彼と違ってゼノアイナはお喋りで、しかも殆ど特に意味がないのだ。基本的に無駄口を叩かないレイにとって、その雑談に付き合わされる事は苦痛でしかない。ヴィリアンは全く喋ろうともしなければ、ゼノアイナも彼女に会話を強制しない。ミサキが起きていればレイに会話を求めず、彼女に話を振るのだろうけど。 「レイ君はさ、腕輪が作られた目的について考えた事がある?」 「いえ」 「オレは考えた事あるよ。そしてひとつの結論に辿り着いた」 ゼノアイナはたっぷり間を置いて、そして悪事を告白するかのようにひっそりと囁いた。 「世界征服」 レイは反応に困った。内心では「そんな馬鹿げた事は有り得ないだろう」と思っていたが、口に出して言わなかった。彼なりの気遣いなのか、言えなかったのだ。 「なーんちゃって。嘘だよ。怖い顔しないで。本当の所は人間が天使の事、怖くなって封じ込めちゃったくらいに思ってる」 「天使の腕輪を信じていたんですか」 その質問はつまり、レイが天使の腕輪を信じていなかったという事。人を襲う呪われた腕輪くらいにしか考えていなかったのだ。何処で誰が何の目的の為に作ったかなど、彼の生きる世界にとってはどうでもいい事だったのだ。 「勿論。人が魔法を使えるんだ、存在していたっておかしくはないからね」 一端言葉を切ると、ゼノアイナは声のトーンを落とした。 「天使さんの忠告は無視できない。本当に気を付けた方がいいよ」 “気を付けろ”の意味をレイが理解するのは難しかった。 一体、誰が、何を、気を付ければいいのか。彼にはわからない。でも訊き返す事はしない。それは彼の矜持が許さなかった。 口を閉ざしたゼノアイナはその分、早く歩き始めた。後ろにはヴィリアンが存在を主張しないようにしてついている。その後ろをレイは歩いた。 空気は冷たい。喋らなくなった途端に、ますます冷えていくようだった。 120710 |